マリア・シャラポワ

マリア・シャラポワ6歳のとき、モスクワで開かれたイベントに参加したマリアの才能を見出したのは、あのマルチナ・ナブラチロワ。環境の整ったアメリカで本格的なトレーニングを受けることをナブラチロワに助言されたのだ。

シャラポワ一家はナブラチロワのその言葉を信じ、アメリカへの移住を決断する。裕福な家庭とは言えなかったシャラポワ家。ナブラチロワの助言を受けてから3年の間、金銭面の問題をクリアするために両親は多大な苦労をしたと言われる。

そしてマリアが9歳のとき、父と二人で渡米。フロリダにある「ニック・ボロテリー・テニスアカデミー」に入門し、本格的なトレーニングを始めることになる。

渡米した後も、マリア・シャラポワのテニス生活が順風満帆に進んだというわけではなかった。言葉も分からず、環境にも馴染めない中で、いじめられたこともあった。マリア・シャラポワの持つ精神力の強さは、そうした逆境を乗り越えたことで得られた産物なのかもしれない。

さまざまな困難の中でも、マリアはテニスで成功する夢を決して諦めることはなかった。2001年、14歳の誕生日を向けると同時にプロに転向。その後、一気にトップへの階段を駆け上っていった。



英語名 Maria Sharapova
フルネーム Marija Jurjevna Sharapova
愛称 ロシアの妖精
国籍 ロシア
出身地 ロシア・チュメニ州ハンティ・マンシ自治管区ニャガン
居住地 アメリカ合衆国フロリダ州
生年月日 1987年4月19日
身長 188cm
体重 59kg
利き手 右(ただし日常生活は両手)
バックハンド 両手打ち

ツアー経歴

デビュー年 2001年
ツアー通算 18勝
シングルス 15勝
ダブルス 3勝
4大大会最高成績

全豪 準優勝(2007)
全仏 ベスト8(2004・2005)
全英 優勝(2004)
全米 優勝(2006)
優勝回数 2(全英1・全米1)
キャリア自己最高ランキング

シングルス 1位
ダブルス 41位


マリア・シャラポワ は、ロシア・西シベリアの方にあるチュメニ州ハンティ・マンシ自治管区・ニャガン市出身の女子プロテニス選手です。

ニックネームは「ロシアの妖精」。
身長188cmで体重59kg。

最初は左利きだったらしいのですが、矯正で両方使えるようになったとの事。バックハンド・ストロークは両手打ち。

正確な名前の読み方は「マリーヤ・ユーリイヴナ・シャラーパヴァ」になるのですが、彼女の名前の呼び方は世界の各国の言語でも様々です。

生い立ち

両親はベラルーシ・ゴメリの出身。1986年チェルノブイリ原発事故の影響で、両親がロシア・西シベリアにあるニャガンへ移住を決意したとの事。エンジニアの父ユーリと母エレナの子として生まれて、4歳のときからテニスを始める(4歳の時にカフェルニコフから贈られたラケットは今でも家宝となっている)。

6歳の時、モスクワでエキジビションの試合に出場してマルチナ ナブラチロバの目に留り、ナブラチロバから米国へ行くのがベストとの助言を受けて、父ユーリと6歳のマリアは母を残してわずか900ドルを持って米国に渡りフロリダのブラーデントンに着いた。

ビザとお金の問題で母と一緒に生活が出来始めたのが2年後であったが、貧しい生活の中でテニスは続けて9歳になってニック ボロテリー テニスアカデミーに入ってさらに上達した。オースチン、ダベンポート、サンプラスを育てた伝説のコーチであるランズドルフのコーチを受けるため、大陸を横断してカリフォルニアまで出向くのもしばしばであったらしいです。

16歳の2003年のウインブルドン大会では、ドキッチ等を破ってベスト16に進出して注目を集め、そのプレーぶりだけでなく天性の美貌からクルニコワ2世と騒がれパパラッチの格好の標的となっている。パパラッチは気にしない彼女だが、彼女の唯一の悩みは、ボールを打つ時に無意識に発する激しい叫び声やかなきり声や悲鳴らしいです(笑)。

これについてはランズドルフからも改善指令が出されている。2003年にはジャパンオープンでも優勝したので、日本のファンにもおなじみとなった。現在はフロリダ州ブラーデントンに在住している。

趣味:ファッション、ジャズ、映画鑑賞(パールハーバーはお気に入り)、ロシア音楽やロシア料理は大好物。

次回は選手経歴

選手経歴

2001年4月19日 - 14歳でWTAツアーにデビュー。

2002年 - ITF群馬大会でプロ初優勝。

2003年 - AIGジャパン・オープンにて、シングルスとダブルスでWTAツアー初優勝。

2004年 - ウィンブルドンでセリーナ・ウィリアムズ(アメリカ)を破り、17歳2ヶ月で4大大会初優勝を達成。
11月のWTAツアー最終戦でも決勝でセリーナ・ウィリアムズを破り、大会初出場で初優勝を飾る。

2003年・2004年経歴に関係あるので少し前後になりますが、
2006年 - 全米オープンにて、2004年のウィンブルドン以来となる決勝進出を果たし、決勝でジュスティーヌ・エナン=アーデンを 6-4、6-4 で破り、4大大会2勝目を挙げる。
シャラポワは2003年のウィンブルドン3回戦で第11シードのエレナ・ドキッチを破り、一躍時の人になった。この大会では続く4回戦で同じロシアの選手、スベトラナ・クズネツォワに敗れた。

2004年には全仏オープンで準々決勝に進出した後、ウィンブルドンで初優勝を飾り、1997年のマルチナ・ヒンギス(16歳9ヶ月)に次ぐ大会史上2番目の年少優勝記録を樹立した。
女子テニスで18歳未満の選手が4大大会を制したのは、1999年全米オープンのセリーナ・ウィリアムズ(17歳11ヶ月)以来であった。

AIGジャパン・オープンに第1シードとして出場し、決勝でアメリカのマショーナ・ワシントン(マラビーヤ・ワシントンの妹)に 6-0, 6-1 のスコアで勝利し連覇を達成した。この日(10月9日)は台風22号が関東地方を直撃したが、例年より多い約9000人の観客が来場した。この年のAIGジャパン・オープンの入場者の総数は過去最多となり、“シャラポワ効果”という言葉で表現される場合もあった。

2005年は、2月に東京体育館で開催された東レ・パン・パシフィック・テニスにおいてリンゼイ・ダベンポートを破って初優勝を果たし、好調なスタートを切る。しかし、ウィンブルドンでは準決勝でヴィーナス・ウィリアムズに 6-7, 1-6 で敗れ、大会2連覇はならなかった。

同年8月22日、ロシアの女子テニス選手としては初めて世界ランキング1位となる。また、大会のグレードがTier III(ティア3)であるAIGジャパン・オープンについては、2005年度以降WTAの世界ランキングの規定により出場する権利がなくなった。

2006年2月4日、東レ・パン・パシフィック・テニス準決勝で当年度から現役復帰したマルチナ・ヒンギスに 3-6, 1-6 で敗れ、大会連覇を逃した。(その後ヒンギスには3月上旬の「インディアンウェルズ・マスターズ」で勝った。)

2007年の大会では、全豪オープン決勝でセリーナ・ウィリアムズに完敗した試合の直後でもあり、脚の不調もあってサービスが乱れた。2月3日の準決勝でセルビアのアナ・イワノビッチと対戦した時、第1セットを 1-6 で落とした後メディカル・タイムアウトを取り、第2セットの第1ゲーム終了後に途中棄権を申し出た。

次回はシャラポワ エピソード

シャラポワ エピソード

テニスプレーヤーとは別にファッションモデルとしても活躍しており、ファッション雑誌の人気も高い。2004年の東レ・パン・パシフィック・テニスとウィンブルドン3回戦で実現したダニエラ・ハンチュコワとの“美少女対決”はどこでも抜群の観客動員力がある。

7歳からアメリカに居るため英語は堪能、逆に母語のロシア語はあまり得意ではないらしいが日常会話には支障はない。また、国別対抗戦・フェドカップのロシア代表を辞退し続けるなど、ロシアを軽視する言動が目立つなどの理由によりロシア国内での人気はあまり高くない。一方、隣国ウクライナではロシア軽視は問題とならないのか人気はある。

日本での活躍も多く、かなりの人気である。ツアーでも日本のトーナメントとの相性は抜群で、本人も日本好きで有名である。2004年にはNECの、翌年にも本田技研工業やキヤノンなどのテレビCMにも出演している。

勿論アメリカでもモトローラ携帯電話イメージキャラクターに起用されたり、大手香水会社「パルロックス・フレグラン」とも契約していて、2005年には彼女の名前の付いた香水が発売された。これら副業の成功もあり、女子スポーツ選手としては世界トップの収入を誇る。

使用ラケットはプリンス、ウエアーとシューズはナイキ。好きな日本食はしゃぶしゃぶと抹茶アイス。趣味は切手収集。

妖精の叫び

前の記事でも少し触れましたが、彼女はボールを打つときに独特の甲高い叫び声をあげながらラケットを振りぬくことでも有名で、彼女の愛称になぞらえて「妖精の叫び」などと形容されている。

あるTVの企画で彼女がボールを打つときの声量を測定したところ『101db』であった。この数字はパトカー等のサイレンと同等レベルで、その声は聞くものにとっては不快感を伴うにレベルに達するという。

ちなみに地下鉄70db、道路工事100dbである(尚、各比較対象値は目安)。2002年に175cmだった身長は2003年に183cmまで伸び、現在は188cmとなっている。急激に身長が伸び手足が長くなったため、プレイスタイルが体についていかない時期もあった。

父親は彼女の試合だけではなく、練習にも常に同伴してくる。一時期ロシア・ナショナルチーム内でのアナスタシア・ミスキナとの確執が報道されたが、この時、ミスキナは彼女の父親が練習を参観する事を嫌っていた。

2007年2月14日、国連開発計画親善大使に就任し、チェルノブイリ原発事故後遺症に苦しむ祖国ロシア・ベラルーシ・ウクライナの8つの若者支援プロジェクトに自身の基金から10万ドルを寄付すると発表した。


4大大会優勝
ウィンブルドン:1勝(2004年)
全米オープン:1勝(2006年)
(全豪オープン準優勝1度:2007年)



2004年 ウィンブルドン セリーナ・ウィリアムズ 6-1, 6-4
2006年 全米オープン ジュスティーヌ・エナン=アーデン 6-4, 6-4


主な出演CM

ダイエットペプシ
キヤノン写真DV
本田技研工業 フィット

テニスの歴史

昔のジュ・ド・ポーム複数の人間が1つの球を互いに打ち合うという形の球技の起源は、紀元前にまでさかのぼるらしいです。古代エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていたといわれ、紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されています。

エジプトに存在したこの球技は、古代ローマ帝国にもレクリエーションの1種類として引き継がれたが、現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、8世紀ごろにフランスで発生して、当初はラ・ソーユ (La Soule)、16世紀以降にフランス貴族の遊戯として定着をはじめてジュ・ド・ポーム (Jeu de paume) と呼ばれた。

フランスでこの球技が盛んになったのは、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していたイスラム教徒(ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶が興味を持ったことからはじまったと言われています。(ラケットの語源がアラビア語)フランスの僧院で特に盛んに行われるようになったのは、12世紀ごろ以降からとされています。

現代のローンテニスに対して、最初のテニスは普通に「テニス」と呼ぶが、このことはあまり知られていないみたいです。「テニス」の名称は「テネ」(受け取れ、という意味の語でサーバーの掛け声)に由来します。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスとよく似ており、ファイブズ (fives)、ペロタ (Pelota) などのハンドボールから発達しました。

昔のテニスのコートは僧院にあり、四方を壁と傾斜した天井に囲まれていて、現代のローンテニスのコートより大きかった。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、多くのコートが建造されましたが、残っているものは少ない。イギリスでは復元されたコートがクリフトン大学にありますね。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス (Royal Tennis)、アメリカではコート・テニス (Court Tennis) とも呼んでいる。

中世のテニスから今日まで

中世では、現代のようなラケットは使わず、手のひらでボールを打ち合っていた。手袋を使うこともあったようです。「ポーム」とは手を意味する。ボールは皮製で現代のものより重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。

レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世ではレシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことが起源らしいです。(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)

16世紀には現在のラケットの原型が登場した。これはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。また、この初期のラケットは選手が自作していたみたいですね。

現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。
1873年12月、ウォルター・クロンプトン・ウィングフィールド少佐は、イギリス・ウェールズのen:Nantclywdにある自分の所有地でガーデンパーティーを開いた。ウイングフィールド少佐はそこに招かれた客を楽しませる余興としてローンテニスを考案した。ローンテニスは、12世紀のフランスで考案されフランス革命まで貴族たちがプレイしていたテニスを基にしている。ウイングフィールド少佐の考案したテニスのコートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。

1874年、ウイングフィールド少佐はテニスに商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功しなかった。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まった。アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。

1881年には競技としてテニスをする望みがテニス・クラブの設立に結びついた。1877年ロンドンで、アマチュアの大会として第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。1881年には、アメリカ国立ローンテニス協会(今のアメリカ・テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。

1881年に「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカ・ロードアイランド州ニューポートで開催され、6年後の1887年に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)が始まった。これらが現在の全米オープンの原型となった大会群である。男子テニス国別対抗戦のデビスカップは、ナショナルチームの間で1900年から始まった。

日本男子では

日本では1878年にアメリカのリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したものが最初とされる。用具の調達が困難であったことからゴムボールを使う日本の独自の軟式テニスを考案し、独自の発展を遂げた。

その軟式テニスで育った選手(熊谷一弥、清水善造、佐藤次郎等)が硬式テニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らはその独特のテニスで大活躍し、世界を驚かせた。

清水は1920年のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝に進出し、当時の世界ナンバー1だった米国のビル・チルデンに肉薄した。熊谷が主に米国で活躍し、クレーコートで無類の強さを発揮した。佐藤は当時の世界ランキングで3位まで昇りつめたが、1934年4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をする。

1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。

近年は松岡修造の健闘があった。平均的な成績(アベレージ)はいくらか低かったものの、ピーク時は限りなく高く、時にトップランカーと互角に渡り合い、そして倒した。1995年ウィンブルドン選手権男子シングルスでのベスト8は大健闘といっていいだろう。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少ない。

日本女子では

女子では1975年のウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子とアン清村のペアが初優勝したことが日本テニス界の起爆剤となり、世界挑戦を目指すプロ選手が増えてきた。

1980年代に活躍した井上悦子はその先駆者的な存在となる。やがて、1989年にプロ転向した伊達公子が、1990年代に目覚ましい大活躍を遂げ、日本人の女子テニス選手として初の世界ランキングトップ10選手に成長した。

同時期には沢松奈生子、雉子牟田直子、長塚京子、神尾米、遠藤愛、佐伯美穂、吉田友佳、杉山愛等が次々と世界ランキングトップ100入りし、日本女子テニスは全盛を築く。

平木理化の1997年全仏オープン混合ダブルス部門での優勝もあった。しかし伊達が1996年に引退した後、他の選手の勢いも衰えた。2004年2月に杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たしはしたが、杉山と浅越しのぶ(伊達の後輩にあたる)の活躍に頼りきりの状態が長らく続いてきた。

その浅越しのぶは2006年を最後に引退を表明。森上亜希子、中村藍子、森田あゆみなどの今後の活躍が望まれている。